Smoky life in Rochester

Rochester大学にポスドク留学中の日記。膠原病専門。

安楽死合法化 / 細胞の培養

先日書いたカナダのCBCポッドキャストで、安楽死の話が取り上げられていました。
2016年に安楽死が合法化されて以降、急速に安楽死先進国となっているカナダですが、これまで身体における不治の疾患を条件としつつ、これがどうにもできない場合に適応が考慮されるものだったようなのですが、現在は精神疾患を単一の条件としても安楽死の申請ができるようにする方向で話が動いているということです。去年、話が先送りになって、今年いよいよということだったみたいなのですが、今回も先送りになったという話をポッドキャストで扱っています。

www.cbc.ca

なんだか、安楽死といえばスイス、オランダみたいなイメージですが、カナダ、ベルギー、オーストラリアなどがそれぞれの条件下で安楽死を合法化しています。「安楽死/euthanasia」という言葉もどうなのかとは思いますが、カナダの場合はmedical assistance in dyingという用語が使われているようです。

基本的には、リベラリズムの観点に基づき、自分の生についての自己決定権があるように、自分の死についても自己決定権があるという発想があるわけですが、なかなか難しいですね。2022年にジャン=リュック・ゴダール監督が安楽死で亡くなったというニュースが衝撃的だったわけですが(自身の映画と同じように、人生を唐突に「カット」してみせたなんて言われていました)、それ以降、たまに安楽死については考えるところがあります。

 

こちらの記事はカナダで実際に死亡幇助を提供している医師のインタビューで、非常に示唆に富みます。

globe.asahi.com

特に、「私は、死の選択肢を示すことができるだけで、治癒的効果があると信じています。この段階で私の仕事は8割終わっています。患者は自分に決定権があり、力を与えられたと感じ、そのことだけで苦しみが和らぎます。」というような発言は、確かに批判するのが憚られるような、リベラリズムの王道を行く清々しさがあります。

一方で、最近読んだこちらの記事では、影の側面が触れられています。

president.jp

「カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。」というのは考えものですし、そもそも医師の側も結構安楽死の承認に「前向き」になっている部分があるようで、こうした事例を読んでしまうと、どうなのかなと思ってしまいます。

今回は先送りになった精神疾患による安楽死が合法化された場合、たとえば「死にたい」などの「症状」は果たして「症状」としての位置を維持できるのでしょうか。症状というのは、基本的にそれによって自身の健康や生活が制約されてしまうという意味合いがあります。しかしながら、「死にたい」→「安楽死」という「合理的な」道筋があるのだとすれば、それはもはや「症状」ではなくなってしまうように思います。(このように、医学における症状や疾患は純粋に生物学的な定義ではありえず、社会ー心理ー生物モデルで定義されています。)

 

Guardian誌のこちらのコラムでは、結局、誰かが安楽死を望んだとき、その「選択」が許容できるぐらい、その人の状態が悲惨であるかどうかがポイントになるのだから、実は個人の自己決定を促進しているようで、「その人の人生がどう見えるか」が問題になっているのだ、とちょっと鋭い指摘がなされています。

For many, the case for assisted dying is clear. But life – and death – is often not so simple | Martha Gill | The Guardian

また、同じコラムでは、ロビン・ウィリアムスの自殺が、かなり自殺者数を増やしたというような疫学調査をもとに、一度死の選択肢というものが与えられた場合の波及効果についても憂慮しています。

70年代に『ソイレント・グリーン』というSF映画がありましたが、格差が恐ろしく進行したディストピア的な世界で、死にたくなったらいつでも安楽死させてもらえるという設定でした。自然の映像とヒーリング音楽に囲まれながら穏やかに、ほとんど感動しながら「幸せな」最期を迎えるシーンが印象的でしたね。カナダでは医療へのアクセスが芳しくなく、待機時間が年々増えているなか、安楽死はほんの数週間でできてしまうという事態となっています。
このような「福祉の顔をした自殺幇助」というものが一般化してしまう世界は、AIに支配される世界以上に現実に迫っているのかもしれません。

 

より現実の話として安楽死を取り上げた作品では、昨年日本でも公開されたフランソワ・オゾンの『すべてうまくいきますように』という傑作がありました。ソフィ・マルソー演じる女性の父親が脳梗塞で倒れて、復調するのですが、不自由になった自分を受け入れられず、頑なにに安楽死を希望し、それを渋々受け入れた姉妹が父親をスイスに連れて行こうとする話で、これは大変素晴らしい映画でした。 

 

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ちなみに日本でもし安楽死を考えるとすれば、まずは死刑廃止が先だと思います。

 

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最近、マウスの骨皮質由来の細胞を培養する術を教えてもらって、細胞を継代していたのですが、途中でミスって全部死んでしまいましたw  教えてくれた先生には内緒にしてまたマウスを入手することにします。。

あとは、別の研究のことで、ボスから別の研究室のポスドクを紹介してもらい、本日ラボに直接伺って、色々とディスカッションさせてもらいました。前にも書いたように、日本にいる時とは比べ物にならない早さで、いろんな人を紹介してもらえるのですが、やはりうまく英語でコミュニケーションとれるかな、ここらへんは何て聞いたらいいのかな、といったことを前日から考え続けることになるので、なかなか疲れます。ただ、今日は結構和やかに実りあるディスカッションができたのでスッキリしました。

明日はミーティングで、別の人が進捗を報告する予定ですが、私もスライド一枚でトピックを紹介するように言われているので、本日はその原稿を書いていました。これは日本語でもそうなのですが、ちょっとさくっとプレゼンをするときでも(というかそういうときこそ)、可能であれば原稿を先に書いておくようにしています。その方が絶対うまく喋れるからです。これは研究だけでなく、むしろ臨床の現場ですごく感じることが多くて、若手の医師は救急外来などで専門科にコンサルテーションを行うことが頻繁にあるのですが、私は(ST上昇してます、みたいなとは異なる)少し入り組んだ症例については、電子カルテにコンサル内容を打ち込んだうえで、電話口でそれを棒読みするようにコンサルトしていました。研修医は夜の救急外来で(めっちゃ眠くて機嫌が悪い)上司にコンサルトするのがストレスになるわけですが、この原稿棒読みコンサルトをするようになってから、かなりスムーズにできるようになりました。

研修医にも、一度騙されたと思って原稿書いてからコンサルトしてみな、というのですが、誰もしてくれません(泣)