Smoky life in Rochester

Rochester大学にポスドク留学中の日記。膠原病専門。

Progress

今日は久しぶりにボスとの面会でした。

最初にボスとの面会をしたときの話を書いたとき、たっぷり時間をとってくれてありがたいといった感じで書きましたが、なんだかんだ忙しい方で毎週の予定が実質隔週になっています。また、いつも11時に設定されているのですが、その前のミーティングがたいてい押しており、そして私との面会の前に必ず新しいコーヒーを入れに行くので笑、始まるのが少し遅れます。またなぜか11時半にラボの他のミーティングがあるので、30分弱で終わってしまうことが多いのが現実です。ちなみにその11時半のミーティングは私も出席するもので、いつもボスと一緒にズームで参加して、気づかれないようにズーム画面から徐々にフェードアウトしていくのが慣例になっています。
と、色々書きましたが、別の不満はなく、それでも建設的な議論をしてくれるので、むしろ毎度楽しみにしています。怖いボスだと、ビクビクしながら面談に臨むなんていう話も聞いたことがありますから、大変良い環境だと思います。

最近は、雲行きが怪しかった研究の方が、当初の目的とは少し違うレベルで面白いデータが見つかり、今日それをボスにお見せして感動を共有していました。
院生時代からRを使ったグラフ作成を練習しておりまして、今回も数日間、試行錯誤を重ねて「エレガントなグラフ」を一生懸命作っておいたので、そのお披露目のつもりだったのですが、一番苦労したグラフを見せる前に終わってしまいました(泣) とはいえ趣旨は伝わったので良しとします。

あと、最近臨床データの収集をするにあたって、電子カルテのアクセスを承認してもらったので、電子カルテはどこにあって、どれを使えばええんやとボスに聞いたら、なんとラボのPCからアクセスできるのだそうです。日本でこれができる大学があるのかわかりませんが、これなら少ない電子カルテの奪い合いも起きず、自分の作業用PCからカルテ情報が閲覧できるので超絶便利です。前からあった仕組みのようなのですが、パンデミックが追い風になったようです("The pandemic accelerated tele-health.")。ちゃんと設定をすればスマホからも閲覧できるようになっていて、これなら上の先生はほとんど動かなくて済みますね。("But the problem is that you're always connected."とも言っていましたが)

パンデミックで遠隔医療の気風は当院でも一瞬流れたのですが、なんか結局、経営上の問題なのか、最近、リモート診療は原則なしになってしまいました。

リモート診療がどこまで効率性を改善するかという話には色々議論がありそうですが、患者目線でも効用があるように思います。というのも、膠原病というのは、治療により元通りの体にするものではなく(現状では困難)、多かれ少なかれ付き合っていかないといけない病気なので、患者それぞれのライフスタイルを一つのコンテクストとして、症状や治療経過を評価していかなければいけません。なので、患者が自宅でリラックスしている状況でのやり取りには、診察室では得られない情報があるということになります(まぁ在宅診療の効用としてよくあげられるポイントですね)。もちろん、身体診察や血液検査ができないといったデメリットがあるので、それぞれに利点と欠点がありますが、コロナ後に体制がなくなってしまったのは残念なことです。

"Our country is really left behind in terms of digital healthcare. Our health care are suffering in short supply, so we have to do something about it, and the digital healthcare is one way. But we're struggling to catch up with it. One of the problems is that different hospitals use diffeerent medical record from different company, so it's difficult to integrate the information."と、たどたどしくお伝えしましたが、その問題はなくはないけど、でも結構な大学が同じ電子カルテを使っているからそこは良いわよね、と言っていました。

 

****************************************

 

日本にいたときに、アルベルト・モラヴィアの『同調者』という小説を読みました。舞台はイタリアで、戦前に少年時代を過ごし、その後イタリア・ファシスト党に入党し、大学教授の暗殺任務を命じられる青年マルチェッロを主人公にした話です。前半ではかなり精神分析的なアプローチで、なぜマルチェッロがファシスト党に入ることになったのか、という部分を描いているのですが、ポイントは、「自分は周りと違っていて異常なのではないか」という懐疑心を抑圧するために周りと同じになることを強く希求する点です。自分が少年時代に抱いた感情や衝動をして、「これは間違ったものではないか」と抑圧するわけです。あぁ、なるほど、と思います。

こういった自己懐疑というものは、自分には悪い血が流れているのではないか?という恐怖心、自分は不幸の星に生まれ落ちたのではないか?といった不安など、さまざまなバリエーションがあると思います。
幾分実存レベルが下がりますが、「ここで行為に及ばないのは男ではないのではないか(興奮していない自分はインポテンツなのではないか)」、「もう5回目のデートなのだからキスしなきゃいけないのではないか」といった社会規範を真に受けることで生じる不安も、その仲間に入れてもいいでしょうか。もちろん自己懐疑や自己反省は自己成長の大事な契機ではありますが、なんというか、自分にはどうしようもない情動経験について間違っているかもしれないという不安を抱いてしまうところに、「みんなと同じでありたい」という同調圧力が侵入する隙間があるのかもしれません。自分としては、懐疑しつつ抑圧もしない、つまり抑圧するのではなく対峙する、というところにしか希望はないのかなと思います。

 

 

救急車の有料化 Part2

前回の記事を書いたあとに、三重県松阪市で救急車の有料化を6月から実施するというニュースがありました。

6月から1件7700円を徴収 救急車〝便利使い〟歯止め 救急搬送され入院至らずの患者 三重・松阪市(夕刊三重) - Yahoo!ニュース

が、これはいわゆる日本初の救急車有料化ではなく、救急外来での軽症患者に対して選定療養費を徴収するというもののようです。

「選定療養費 救急外来」などで検索すれば、いろいろな病院のホームページで同じような徴収方法が明記してあります。基本は紹介状なしで受診した場合などに徴収するものですが、病院によっては救急車で来た軽症患者からも徴収するようです。松阪市の基幹病院でもそれに踏み切るということのようです。日本赤十字医療センターのこちらのページがわかりやすいです。

前回の記事で紹介した論文にもあったように、救急搬送は消防枠なので、おそらく救急搬送そのものにチャージするのが難しいため、このような選定療養費というかたちで間接的に救急搬送にお金がかかるようにしているのかな、と思いますが詳しいことはよくわかりません。

ただ、いずれにしろこれは前からそうなのですが、救急外来を受診すると結構お金かかるんですよ。日本はCT検査のハードルがすごく低いので、軽症でも念の為CTを撮ることがあります(それで思わぬ診断に至る場合もあるので、ここでその評価は避けますが、「こんなので救急車呼ぶなよ」と思うような軽症例でも「念の為CTを撮る」というような事態がわりと当たり前にあります。)

なので、現状に加えて、さらに救急車を有料化する意味ってあるのかしら、とやはり思ってしまいます。

Podcast

最近また良いリスニング教材を見つけました。

こちらは、カナダのCBCが提供しているニュース・ポッドキャストです。

www.cbc.ca

まったく関係なく、As it happensという熟語を調べたらこのサイトが出てきました。

ほぼ毎日、カナダと世界のニュースを取り上げるポッドキャストなのですが、割と重要な国際ニュースから地元の面白いニュースまでを大体10分ごとぐらいに取り上げていて、各ニュースで必ず誰かのインタビューが入るので、会話形式の英語を学べます。

最近だと、1月11日、12日の回で、南アフリカイスラエルをジェノサイドの罪で国際司法裁判所(ICJ)に告訴したニュースについて、両陣営にそれぞれインタビューをしています。ガザのニュースとしても、単に戦況や政治的出来事を取り上げるのではなく、例えばガザからカナダへの移動を手助けしている弁護士のインタビューなどもあって、割と多角的な構成になっている印象です。

教材としてすごく良いと思うのは、トランスクリプトがついている点、テレビのニュース番組よりはゆっくりと喋ってくれる点、そして英語圏にとどまらない色んな国の人の英語を聞くことができる点です。

カナダの地元のニュースも興味深いものが多くて、最近だと医師不足の地域で、バーチャルERを開設したという話だったり、あるいは-40度を下回るアルバータ州の町で、ホームレスのキャンプ場が当局により撤去されそうになって、それに市民が抗議している話などが紹介されています。

 

ロチェスターはここ1週間ほど-10度前後の気温が続いていますが、黙々とバスを乗り継いで映画を見に行っています笑

おとといは、ポール・ヴェキアリのStrangler (絞殺魔)、昨日はアカデミー賞にノミネートされそうなアメリカと韓国の合作映画『パスト・ライブズ』、今日はアキ・カウリスマキの『枯れ葉』を見ました。

枯れ葉は、世界的な映画監督であるカウリスマキの熟練の作品です。フィンランドの作家なのですが、北欧といえば、ちょっとくすんだイエローとブルーの色彩のイメージです。スウェーデンロイ・アンダーソンの作品でも、黄色がとても綺麗だなと思います。今回は主人公の女性が着ているライトブルーのコートと、家の外壁の黄色が非常にマッチしていました。

 

最近はコラボしている研究室の先生に、in vitroの細胞培養のアッセイを習っているところで、明日の午後に培養液の交換にうかがう予定です。

実は明日の午後にGeva Theaterという劇場でDial M for a Murderという舞台を見に行く予定だったのですが、まぁちょっと研究の方を優先することにして(培養液の交換程度なら別にいいのかもしれませんが、まぁせっかく習ってる身だし、それやらずに遊びに行くのもスッキリしないので)購入したチケットを誰かもらってくれないかと各所にメッセージを残しているのですが、今のところ反応なし。。

 

 

 

 

救急車の有料化

救急車の有料化って、周期的に話題になる気がします。

少子高齢化が進むなか、社会保障費が高騰して社会保険料もどんどん上がって大変、といういわゆる財政問題のほか、多くの病院で救急医療が逼迫して医療者が疲弊しているといった文脈で、「タクシー代わりの救急要請」や「明らかに軽症な搬送例」などの”エピソード”が、救急車有料化を支持する声を後押ししている印象です。

1ヶ月前にも産経新聞でこのような特集がありました。

【討論】救急車は有料化すべきか(1/2ページ) - 産経ニュース

あるいは、たまにツイッターなどのSNSでもインフルエンサー的な人が上述のようなロジックで、救急車の有料化を言うケースもあるようです。

また、医師のほとんどがこれを支持しています(肌感覚とも合います)。

医師の9割が救急車の有料化を支持:日経ビジネス電子版

 

「現場の意見」の信憑性

一つ言っておきたいのは、「現場の医師の意見」というのは、相当に感情的なものである可能性があるということです(感情的だからダメというわけではありません)。例えば夜中の当直で、せっかく寝ていたのに若者がアルコール中毒で運ばれてくると、「ちくしょうっ!!!」と憤慨してしまうわけです。そんな心理状態のなか、チラッとSNSで、誰かが救急車の有料化を訴えているのを見れば、自然とそれに共感してしまうということがあり得ます。また、研修医になると、夜の救急外来を上級医と一緒に担当することになるのですが、そこで夜遅くに軽症の患者が救急車で運ばれてきたりすると、横で上級医が「まったく、こんなんで呼ぶなよ。救急車は有料化すべきだな、、」とつぶやくのを聞くことになります。そうやって育っていけば、自ずとこうした意見に傾いていくことになりますし、そこにはある種の懲罰的欲求(「こういう非常識な人間は罰金にすべきだ」)の側面があるのではないかと疑います。
何が言いたいかというと、もちろん多くの救急医療の現場は逼迫しており、その負担を軽減することが急務なのは間違いないのですが、もし「救急車の有料化」という政策が医師の間で支持されやすいとすれば、それはその実効性や効果を十分に考えたうえでの意見というよりは、こうした実体験に基づく「印象の強化」が貢献している可能性があるのではないか、ということです。
実体験に基づく意見、つまり現場の意見というものは、それが実体験に基づいているという意味ですごく貴重であると同時に、上記のような認知的バイアスがありうるという点に注意しておく必要があります。実際、実体験で、ということであれば、例えば軽症だと思ったけど実は心筋梗塞でした、とか、そういった事例は枚挙に暇がないので、なかなかそれだけを根拠に言うことは難しいわけです。
とはいえ、急いで付け加えておきたいのですが、上述したように、現場の意見は感情的だからダメだというわけではありません。実際にあり得ないほどの患者数を捌きながら、どんどん疲弊していく医師が、目の前の軽症の救急搬送事例を見て有料化を主張するのであれば、そこには間違いなく汲み取るべき事情があるわけです。ただし、救急車の有料化をすべきだという主張そのものをそのまま受け取るのではなく、そうした主張をするに至る背景となっている、疲弊、負担、ストレスに対する最適な処方箋を考えるべきで、それが本当に救急車有料化なのかということは、今一度立ち止まって考えてみる必要があるでしょう。

 

利害関係は思ったより複雑 軽症救急が「嬉しい」病院も

実際、救急車をめぐっては、それぞれの立場によって相当に見えている景色が違う可能性があると思います。たとえば一口に「現場の医師」といっても、大病院の救急医だけでなく、2次救急病院の当直医もいますし、また地域によって医療システムにかなりの差があり、広域連携がうまくいっている自治体もあれば、全然うまくいっていなくて、過剰な負担に苦しんでいる病院などもあるでしょう。あるいは繁華街近くの病院と、僻地の病院、都心部の病院と郊外の病院では救急搬送の内容も異なってくるでしょう。
また、これはよく見落とされる論点なのですが、病院の経営側のファクターも相当に影響します。日本の医療というのは、国民皆保険という「公助」が非常に世界的にも賞賛されてきた面があるので、すごく公的なものであるという印象を受けますが、実際には病院の8割が民間病院であり、基本的には利益をあげることを考えているわけです。実際、私がバイトで行っていたある民間病院は、救急搬送の受け入れでもらえる救急加算を収入源とすべく、救急車の積極的な受け入れを医師にお願いしていました。断らない救急というと聞こえが良いですが、(その病院の場合)口ではそう言うものの、(パラメディカルも含めた)人的資源がまったく足りていないため、実際には重症患者にはあまり対応できないわけです。そうすると、そういう病院にとっては、軽症の搬送例が「大きな収入源」と言えなくもないわけです。だからどんどん救急車を呼んで良いんだというわけではありませんし、こうした民間病院の経営方針自体にも問題があると思いますが、やはり一口に現場といっても、立場によって見え方は結構違う可能性があるという一つの具体例になるかと思います。救急医療だけでなく、人口減少に伴う民間の病院経営の悪化というのは、この先大きな影響を及ぼす可能性がありそうです(こうした、患者、医師、病院のそれぞれの利害関係の厄介さについては、コロナの搬送困難事例などを通じてかなり世に知れ渡ったのではないかと思います)。

最近ニュースになっていたこの話も、病院経営側が医師に過大な負荷をかけていた事例になります。

常勤医師15人が退職する中核病院の院長を解任…生活保護の患者に差別的な発言?行き過ぎた「救急は断らない」方針で軋轢 - RKBオンライン

こうした事例を踏まえると、「軽症なのに救急車を呼んでしまう困った人」ばかり標的にしていると、視野狭窄に陥り、大局的な視点に立つことができなくなるリスクもありそうです。

実際、救急車を呼ぶ側にしても、色々なシチュエーションがあり得ます。「多くの人は家に救急車が来ると目立ってしまうので、できれば呼びたくないけれども、止むに止まれず呼んでいる」といった意見もよく目にしますし、またこれは上記の地域連携の問題につながりますが、「軽症外来に電話したら救急車を呼べと言われた」といった事例(実際は軽症)は、自分が経験していても相当数ありました。こうした点を踏まえると、一概に「呼ぶ人間に問題がある」とは言えないように思います。

 

 

 

と、色々あてもなく書き連ねてしまいましたが、結局、現場の負担を軽減する目的に対して、救急車の有料化には意味があるのかという点については、こちらの論文などが参考になるかと思います。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/soes/38/0/38_109/_pdf/-char/ja?fbclid=IwAR2mJuvzO67NBcyMmwxb54Rc63BMifEqpf3mfUYNPvaqK6iLS9pN-m2HN7s

※これは自分も盲点だったのですが、日本の「救急搬送」は、医療サービスではなく、消防枠なのだという点です。そのため、財源も社会保険とは別に公的支出がなされているようです。このへんは海外とも異なっており、アメリカやヨーロッパ諸国では救急搬送も含めて医療サービスなのだそうです。

 

救急「要請」よりも、救急「搬送」の抑制を考えてみては?

さて、ここからは相当に個人的な印象論になりますが、積み重なる「軽症の搬送例」に医師が憤慨しているとすれば、その憤慨は「呼んだこと」よりも「搬送されたこと」に対して向けられるべきかと思います。ちょっと法律的なことはあまりわからないので、あくまで実体験に基づく印象ですが、日本では救急車が呼ばれた場合、いわゆる不搬送例というものは非常に少なく、ほとんどのケースで実際に搬送されているのではないかと思います。搬送例のなかには、「明らかに呼ぶ必要のない軽症例」があるということが問題になっています。とすれば、いかに不要な救急「要請」を抑制するかよりも、いかに不要な救急「搬送」を抑制するかを考えるべきでしょう。つまり、要請があって現場に行った救急隊が、これは不要だと判断したものについては不搬送にできるようにする、といったことです。
そう思って調べてみると、一応そういったことはなされているようですが、消防局によって対応がまちまちのようで、少し古いですが、以下の資料によると不搬送判断を実施しているところは少数派のようです。

https://www.fdma.go.jp/singi_kento/kento/items/kento018_10_haifu_2.pdf

もちろんこうした取り組みもそれなりにされているに決まっていますし、#7119のような夜間相談窓口の啓発もありますので、今更私が提案するようなことでもないのですが、しかし考えてみてほしいのは、こうした介入を通じてもなお、不要不急の救急搬送があるとすれば、それは不要不急の症例を、プロが見極めることができていないわけで、それなら一般人にそれを判断せよというのはなおさら無理な話ではないか、ということです。要請から搬送までの過程で、いかに効率よく重症例と軽症例を見極めるかというところのアイデアがもう少し必要なのではないかと思います。

と、思いつきで勝手なことを書きましたが、私は救急医療に関してはまったくの素人ですので、詳しい政策論は専門家に任せるとして、やはり言っておきたいのは、人によって見えている景色が相当に違うということと、「軽症なのに救急車を呼んでしまう困った人」を標的にするのではなく、どうすれば全体としての救急医療の逼迫を抑制できるか、ということを踏まえて議論すべきだということです。

で、個人的には以上の観点から、救急車有料化は、「割と反対」です。

 

 

Wegmans

Wegmansはロチェスター発祥のスーパーマーケットで、Walmartなどに比べると品質の良い生鮮食品や肉、パン、ジャム、寿司などを取り揃えています。ある人は成城石井みたいな感じとおっしゃっていましたが、まぁ確かにそんな感じです。発祥の地なだけあってか、割と各ブロックに一個ぐらいあります。先日、Wegamansまで歩くか、と思って40分ぐらいのつもりで歩いていたら全然辿り着けず、実は全く違う方向に歩いていたことが判明し、最寄りのWegmansにプラス20分歩いたということもありました。

Wegmansの寿司は一度食べましたが、結構おいしいです。肉の小間切れなども置いているし、値段も決して高くないので、最近はwalmartよりもこちらですね。

 

休日は最寄りのバスが1時間に1本しか来ませんが、Wegmansにはサンドイッチ屋さんがついていて、そこでイートインもできるので、午前中に出発→買い物→サンドイッチとコーヒーで読書→バスで帰宅、という感じで過ごすことが多いですね。

コーヒーがめちゃめちゃ旨いです

今日は平井靖史先生の『世界は時間でできている』を読みながら。

 

昨夜から今朝にかけて結構雪が降りました。


最近行った写真展で、アーティストのインタビュー映像があったのですが、そこで「縦長写真の方がクールだよね。コンテクストが遮断されて、見え方が変わるっていうか」とおっしゃっていたので、少し縦撮りも試みてみました。
フィルム撮影の現像とか自分でやるの楽しそうだなと思って少しサイトを漁っていたら日が暮れました。





 

逃げる

あけましておめでとうございます。

年末は家で映画を見ていました。ここ数年、必ず年の瀬にはイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』を見ています。あの美しいニューヨークの冬景色が見たくなるというのもありますが、サレンバーガー機長のプロフェッショナリズム、トラウマを生きること、街の人々の反応、どれも見事に描かれていて、一年に一回はこれを見たくなりますね。

 

石巻赤十字病院で研修をしていたとき、毎年災害時の訓練がありました。被災者の役でボランティアが歩いてくるという形式もあるのですが、重症のセクションだと、症状と状況が書かれた紙だけ貼っつけた人形がタンカーで運ばれてきて、それに応じて指示を出すというような訓練もあります。まだ震災から数年しか経っていなかったということもあってか、その人形の処置をめぐって、みんなびっくりするぐらい真剣になるんですよね。こういった経験もあってか、非常時こそ自分の仕事をこなすプロフェッショナリズムは胸に迫るものがあります。

 

サレンバーガー機長は紛れもないヒーローなのですが、映画はこのヒロイックなイベントの直後、悪夢にうなされるサレンバーガーの描写から始まります。人間は一度死の淵を覗き込むと、いくら生還してもそのダメージは計り知れず、しばらくはその死を生きてしまうことになるのでしょう。劇中にサレンバーガーが言うように、「まるで現実と夢がないまぜになっているような」(I'm having a little trouble separating the reality from what the hell it is)感覚が続き、周囲のサポートがなければ孤立してしまいます。この映画では出来事を順番に描くのではなく、時制を交錯させながら、断片的に当時の出来事を綴っていきますが、これも過去が現在まで引きずっているような感覚を持たせる効果があり、ずっと緊張しながら見ることになります。『スウィート・ヒアアフター』という、スクールバスの事故で子供達が犠牲になる事故とその余波を描いた美しいカナダ映画がありますが、これも同じように時制を交錯させることで、見る者に緊張を強いる作りになっています。


上述のようにサレンバーガーは生還後に何度か悪夢として、実際に飛行機がニューヨークの街の中に突っ込んでしまう場面を見てしまいますが、「あのときはうまく行ったけど、一歩間違えれば・・・」というのは割と誰にでもあるのではないかと想像します。臨床現場でも、緊急で対応しなきゃいけない場面とか、急にバイタルが崩れて心停止しかけたりとか、結果的に救命できても、何度かその場面が頭でリプレイされるということはあるかと思います。
パイロットも、そして乗客も含めて、誰もこのような状況の訓練は受けておらず、初めての経験で全員生還したのだ」というサレンバーガーのセリフがあるように、映画は単にサレンバーガーだけを英雄として描くのではなく、不時着後に脱出し、生還した155人の乗客全員を「自分のやるべき仕事をした人たち」として描いているように見えます。なので、出てくる人々全員に、尊厳があるんですよね。こういう映画ってなかなか無いと思います。
映画として巧いなと思うのが、ハドソン川に飛行機が不時着した直後、一瞬だけ静かになりますが、その一瞬の静寂の後、サレンバーガーがコックピットのドアを開けて、"Evacuate!"と沈黙を破ると、乗客もスイッチが入ったかのように急いで逃げようとし、CA達もその場でやるべきことを淡々とこなしていくのです。実際どうだったかはわかりませんが、この"Evacuate!"の号令とともに、身体が動き、もう一度生きることを諦めないために出口を探す、「仕事をする」というこの流れがあまりにも感動的です。詳しくは言いませんが、生還後のサレンバーガーの"One fifty five"という言葉の重みが凄まじく、このシーンでは涙を禁じ得ません。


今回の地震でも、NHKのアナウンサーの「今すぐ!逃げて!」という言葉がネットで称賛されていますね。素晴らしいと思います。
「逃げろ!」とか「逃げて!」という言葉はなぜか感動的ですよね。

 

大声で「逃げろ!」と叫ぶ場面がある映画を2本知っています笑

一つが、『マイノリティ・リポート』で、もう一つが『ボーン・レガシー』です。全体的には前者の方が面白いですが、後者の「Ruuuuunn!!!」とレイチェル・ワイズが叫ぶシーンはなかなか凄いです。でもいずれにしても、「逃げろ!!」と叫ぶ人の思いが、それを聞いた人をビビビっ!と奮い立たせるというところに、言葉以上のコミュニケーションがあるように思います。逃げる本人も、その号令を聞いたからにはなんとしても逃げ切るぞ、となるわけで、基本的には自分のために生還するのが第一ですが、叫んでくれたあなたのためにも生還するんだ、という余剰が生まれますよね。そこが感動的なのかもしれません。

 

(追記)悠長なこと書いてたら本当に羽田で事故が起きて驚きましたが、旅客機の方は全員脱出したとのことで、本当に良かったです。しかし保安庁の方は死者が出ており、今後は飛行機事故として調査が行われるのでしょう。
色々うだうだ書いたわけですが、要するに「危険から逃げる」っていうのは凄いことなんです、多分。

ヒューマンエラーについては、シドニー・デッカー『ヒューマンエラーは裁けるか』という本がとても勉強になります。

 

 

Ferrari

今日は仕事納めでした。仕事と言っても、論文読んで解析ソフトいじるのが主なので、納まった感はゼロですが。
先日、マウスの腹腔内注射のワークショップを受けまして、生まれて初めてマウスに触れました。もともと4人参加する予定だったのですが、全員ドタキャンした結果、私一人でマウス4体に注射させてもらいました。普通に怖かったですが、だんだん慣れてきてイメージは掴めたかと思います。これまた実際のマウス実験まで期間があくと忘れてしまいそうですが。

解析の方は期待していたような相関は得られませんでしたが、そもそも期待していなかったので何か新しい糸口がないかを検討しているところです。使っている測定キットの信頼性について結構論争があり、その論争も随分ごちゃごちゃしているので、2000年代の発見当初の論文まで遡ってみたり、同じように注目しているマーカーの妥当性についても2000年代〜2010年ぐらいの注目度が高かった時期の論文を読んだりしています。バイオ系の研究者がどういう論文の読み方をしているのかって全然知らない(そういう話もしないですよね)んですが、自分はわりとひと昔前の論文まで遡ってコンテクストを整理するのが好きなんですよね。免疫学って結局相当な部分が概念的な構築物なので、それぞれの概念がどういう歴史的経緯で注目され、定義されてきたのかを知ることが大事なのではないかと思っています。これは膠原病も結構そうで、現象としての症候群を疾患概念で囲っているものなので、歴史的コンテクストに依拠した理解をしないとなかなか生き生きとした知識につながりません。ところが医学生として膠原病を学ぶ場合には、診断基準や自己抗体を一生懸命暗記することになるので、その背後にある動的な概念形成への注目が薄れてしまうのですね。実習に来た学生にはなるべくそのような指導をしていましたが、これが結構伝えるのが大変でしたね。「法律を全部知らなくても、犯罪をせずに生きていくことができるよね?それと同じで、診断基準=法が全てではないですよ」とか言うとかえって混乱を招くという笑

 

クリスマスはThe Little Theaterで"Ferrari"を見ました。
チケット販売の窓口で、"A Ticket for Ferrari、please"と言ったのですが、"Ah? Which film did you say?"と聞き返され、「フェラーリ!」と言うもわかってもらえず、「フェラーリ!」「は?」「フェッラーリ!!」「あぁ?」「ffffフェッラーッリィ!!」「Oh, Ferrari.」とようやくわかってもらえましたが、一体何がまずかったのかわかりませんでした。

今をときめくアダム・ドライバーペネロペ・クルスがイタリアン英語を喋る映画で、会話が全然聞き取れなかったので、3日後に英語字幕ありの回で再見したのですが、2回目の方が満足度が高く、これは相当な傑作であると思いました。

思い出されるのはアームストロングの月面着陸を描いた『ファーストマン』で、あの映画は一見ロマンあふれるミッションを、組織の論理で無理をさせられた乗組員がバタバタと亡くなっていく陰惨な映画になっていて、ある意味でアメリカの歴史を相対化する映画でもあったわけですが、『フェラーリ』にもそうした側面が多分にあり、数年前の『フォード vs フェラーリ』のようなハリウッドらしい快活なレース映画とは真逆の、人類史の影を覗き込むような映画になっています。それでいながらめっちゃ面白いので、さすがマイケル・マン監督。彼としても『ヒート』以来のこれぞ!という作品になっているのではないでしょうか。日本で公開された際にはぜひ見てほしいですね。

 

あと、今まではマットレスを床に敷いて寝ていたのですが、先日ついにベッドフレームが届きました。玄関の前に置いてあったのですが、重すぎて階段を上がれず、その場で切り開いて、玄関と居間を何往復もしてパーツごとに運び、それを組み立てて、とやっていたらかなり疲れましたが、無事完成しました。

写真は完成品、ではなく、切り開いた段ボールの残骸ですw

よいお年を。