Smoky life in Rochester

Rochester大学にポスドク留学中の日記。膠原病専門。

バッファロー滞在記(1)

週末はバッファロー市に行ってきました。バッファローは人口24万人で、ニューヨーク州ではニューヨーク市に次いで人口が多い都市です。ちなみにロチェスターは20万人で、規模はあんまり変わらないかと思いますが、繁華街のお店はこちらの方が盛り上がってる気はしました(と言っても、お互い土地が広大で、エリアが分かれているので一概には言えませんが)。NFLバッファロー・ビルズの本拠地でもあります。

朝9時のバスに乗って、10時半にバスステーションに到着しました。ロチェスターのトランジット・センターとほぼ同じで、いろんなバスのハブ駅になっていて、ここから色んなところに行けます。

 

初日:バス移動〜美術館〜動物園〜日本食レストラン

トランジットセンターで市バスに乗り換えて(ひだり)、美術館へ(右)


ちなみにトランジットセンターの周辺はロチェスターのそれよりも荒れてる感じがしました。トイレも死ぬほど汚かったし。。

 

バッファローAKG Art Museumは、下の写真にあるように、ひだり側のガラス張りの近代的な建物と右側のオーセンチックな建物が通路でつながっています。前者はうねるような曲線的構造になっていて、それでいて見晴らしも良くて、歩いているだけで楽しい建物です。また、両者をつなぐ渡り廊下が、微妙に傾斜がついていたり、場所によって景色の見え方が変わったりと、かなりこだわりを感じさせます。

 

ひだりの石像は渡り通路から見えるのですが、なかなかユニークで存在感があります。

 

 

お目当ての展示は、クリフォード・スティルという戦後の抽象画のブームを牽引した方の展示です。何度か美術館に絵をダメにされたことがあるらしく、美術業界への不信感をもっていたようですが、こちらの美術館とは信頼関係があり、20作品以上がこちらに所蔵されているということで、他に類をみないコレクションになっています。

 

クリフォードは、垂直方向の線を生命体の象徴として多用していたそうで、作品は確かに横よりは縦への流れを感じさせるものが多いですね。

 

と、まぁ画家自身のモチーフや狙いを知るのも良いですが、抽象画の醍醐味は、基本的に具体性のない色のかたまりが、人によって色んな「かたち」に見えなくもない気がしてきて、そうした鑑賞者自身の「バイアス」を再発見させてくれるところにもあると思います。

たとえば下のやつは、自分には肺のCT画像に見えて仕方がありません(笑)

まぁ、もっと普通に、なんとも心落ち着く色の配色をぼーっと見ているだけで心が安らぐというところも抽象画のいいところです。

これはクリフォードの作品ではありませんが、ずっと見てられますね。。

 

美術館のあとは、おしゃれなカフェでお昼を食べたあと、バッファロー動物園に行きました。

午後3時に行ったせいか、羊もゴリラもバッファローもみんなたそがれていました。たそがれているところを邪魔するのもアレなので、写真は撮らずに帰りました。

 

その後は、ホテルにチェックインして、近くにある「日本料理レストラン」であるSatoに行きました。Modern Japanese Cuisine Restaurantを標榜していて、和食というよりは、日本人が好きな食いもんを提供している感じですね。なので、にぎり寿司のほか、カツ丼、牛丼、カレーライスなど色んなメニューがありました。人種関係なく色んな人が来ていて、結構賑わっていました。

ひだりの海藻サラダが絶品でした。

ホテルはすぐ近くにあるリチャードソンホテルです。古城みたいなホテルで、中も豪華なんですけどちょっと不気味で落ち着かない感じはありました笑

天井が高すぎて落ち着かない笑

 

二日目は午前中までしかいなかったのでわずかですが、なかなか面白かったので次回。

 

 

(本日の一節)

繰り返す過ちのそのたび人は ただ青い空の青さを知る

With every mistake we make over and over, we end up in realizing how the blue sky is just blue.

(覚和歌子 作詞 『いつも何度でも』より)

 

 

A sky full of stars

出勤開始からちょうど4ヶ月が経過しました。英会話は3ヶ月で慣れる説、半年で慣れる説、1年で慣れる説、最後まで慣れない説がありますが、3-4ヶ月の間で一段慣れてきた印象があります。私の後ろの席のテクニシャンの人が、一度話し出すと(マジで)止まらない人で、途中から何を話してるのか一切わからなくなるということがざらにあったのですが、この前は最後まで聞き取れました。ただ、どうでもいい話すぎて、結局聞き取れてもリアクションは同じなのですが。会話の横滑りが激しいんですよね。近隣のレストランの話してたはずなのに、いつの間にか飼い犬の話になっており、さらに15年前の同僚の話になっていたり、、、(ちなみにこの人の話を遮れないままボスとの面談に遅れたことがありますw)とはいえ、面倒見の良い方で、何を質問しても全部案内してくれるので、本当に感謝しています!笑

今週はロチェスター大学内のポスドクの交流会がありました。小さなカンファ室で、ドーナツを食べながら好きに交流するという、個人的に一番苦手なやつですw 最初カンファ室に行く途中で、同じく部屋を探しているポスドクがいたので、一緒に行き、部屋でも2分ぐらい喋っていましたが、隣にいた人が知り合いだったらしく、そのままその二人が話し始め、一番コーナーに座っていた私はそのままぼっち化しました。他のエリアを見ても、みなさんそれぞれのペアをつくって和気あいあいとしゃべっており、入り込む余地はありません。こうなると、ああ早く帰りたいという衝動が高まり、トイレに行くふりをして帰るのが定石ですが、なぜかこの日は冷静さを保ったまま、「この時間は耐えどき」と自分に言い聞かせ、スマホをいじってやり過ごすような無駄な抵抗もせず、クリント・イーストウッドのような孤高の振る舞いを意識して、余裕のある笑顔でどこでもない宙を穏やかに見つめていました。10分ぐらいして、一人新しく部屋に入ってきた人がいました。壁際のドーナツとコーヒーを選んでいたので、すくっと立ち上がって近づき、Why don't you sit over there, if you like?と話しかけ、無事話すことができました。サウジアラビアから来てるポスドクの方で、サウジ代表のマンチーニ監督の話とかをしました。しばらくしてもう一人ポスドクの方がいらして、その後は3人で最後までしゃべって楽しい時間を過ごせました。最後に来たポスドクの方は、トルコ人の方ですが、wifeがアメリカ人とのことで、二人の馴れ初めを聞いたら、そのwifeの方がフードライターをして各地を飛び回っていた人で、トルコに来たときに出会ったらしいです。それこそクリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』みたいな話で、思わず"Oh, it's so romantic..."と遠い目でつぶやいたら笑ってくれました。

週末は隣町のバッファローに旅行します。

窓からの景色 夕暮れ時

 

 

 

長くなってしまった

今週は、わりと大きめのプロジェクトの一部として、自分が担当する細胞培養の本番1回目を行いました。マウスから細胞をとって、それを選り分けたあと、目的の細胞を試薬と一緒に培養して、3日後に培養上清や細胞を取って保存、というものです。日本ではマウスに触ったことがなかったので、そこが一つ課題でしたが、手技自体はそれほど難しくなく(別のマウス実験は手こずっておりますが)、もともと細胞の分離と培養は慣れているので、全体として大した難易度ではないのですが、やはり環境が違うとあれこれ大変で、日本でのラボ環境とは備品の配置や仕様がいろいろ異なっており、ちょっとした作業に手こずったり、クリーンベンチと試薬庫の間を何度も往復するはめになったりと、なんだか余計に疲れた気がしました。このあとは保存した培養上清を使って、また異なる細胞を培養する予定なのですが、その培養は完全に初めてで、教えてくれるドクターも離れたラボの人で、基本「プロコトル見てくれ」なスタンスなので、自信をもってできるところまで行っておらず、本番でうまく行くか不安です。しかも、うちのボスも、この培養実験を出して早めに論文にしておきたいと思っているらしく、そのプレッシャーも少々あります(優しい人なので、そんなプレッシャーかけてくるとかではありませんが)。ということもあって、肉体的にも疲れたし、このあとの事もあって、手技が終わってもあまりスッキリしない一週間でした。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

(以下は気づいたらすげぇ長くなってしまったのですが、せっかく書いたのでそのまま残しておきます。)

で、今日は培養細胞を保存し終わったあと、ダウンタウンに行って、役所広司さんの『Perfect Days』を見に行きました。映画の内容とは別に、この映画をめぐっては、色んなイシューがあって、すげぇややこしいことになっていて、面白いので書いてみます。1.監督の話、2.企画そのものが叩かれている話、3. 日本におけるトイレの話、4. 日本社会の話、と順番にいきましょう。(ちなみに内容についてはこちらで書きました。)

 

1. まずこの映画は、ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダースが日本人キャストで撮った映画で、カンヌ映画祭では役所さんが主演男優賞を受賞して、作品も大いに評価されています。このヴェンダースという人は、映画界では超有名な人です。70年代ぐらいから、西ドイツの何人かの映画監督の作品が世界的に評判を呼び、ニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれました。その中心的存在がこのヴェンダースです。特にヴェンダースは日本で人気なのですが、82年の『パリ、テキサス』や90年の『ベルリン、天使の詩』などは世界で大絶賛され、特に前者は戦後映画の金字塔的な存在だと思います。

で、このヴェンダースという人は、元々日本映画をこよなく愛していて、なかでも小津安二郎監督を崇拝しています。80年代に日本の風景をドキュメンタリー映画として収めた『東京画』という映画を撮っています。また、今回、役所さんが演じる男は「平山」という苗字ですが、これは小津監督の『東京物語』の一家の苗字と同じです。縦長のスタンダードサイズで撮られていることも何かしら意味合いがあるでしょう。それと劇中で「今度は今度、今は今」というセリフを二人でオウム返しのように連呼する場面がありますが、これは小津監督の作品で「そう、そうなのねぇ。。」「そう、そうなのよ、、、」というオウム返しが頻発することへのオマージュでしょう。と、そんな具合で日本の映画ファンとしては、テンション上がりまくりの企画なわけです。

 

2. ところがです。じゃあこの企画はいったいどこから湧いてきたのかというと、「東京トイレプロジェクト」という団体が企画したらしいのです。これがインテリ勢から猛批判にあっているポイントです。というのも、この映画は、実際の内容はともかくとして、予告編やメディア広告のパッケージだけを見ると、「トイレ清掃員の慎ましい日常を通して何気ない幸せをすくい取る」というような感じの映画に見えます(その印象は半分当たっています)。格差が拡大し、低賃金で長時間労働を強いられているたくさんの労働者がいるなか、資本家側である「東京トイレプロジェクト」の企画によって「日常の何気ない幸せ」を提示されても、それは社会問題を隠蔽している欺瞞ではないか、というわけです。すっげぇわかります。例えばイギリスのケン・ローチ監督などは、そうした低賃金労働者の過酷な生活を切実に描くことで有名ですし(『わたしは、ダニエル・ブレイク』とか『家族を想うとき』とか)、2,3年前にアカデミー賞を受賞した『ノマドランド』という映画も、Amazonのパートタイムで食いつなぐ労働者を通して資本主義を批判するタイプの作品でした。そういうものと比べると、なんとなくトイレ清掃という「過酷な賃金労働」に過ぎないものを美化して実態を隠蔽しているように見えなくはないのも正直なところです。

さらにですね、この映画の脚本がヴェンダースと高崎卓馬という人の共同脚本になっているんですね。で、この高崎卓馬という人をwikipediaで調べてみると、なんと東京オリンピックのクリエイティブ・ディレクターとかやっている人で、資本と癒着してそうな感じがヤバいわけです。

 

3. あとですね、やっぱり日本における「トイレ」ってもはや冗談抜きで政治マターなんですよね。笑っちゃいますが。

まず、羽田空港のメインゲートの大きな広告はTOTOですよね。日本のトイレって確かに謎に高性能で海外の観光客が驚くみたいな小ネタもたまに見かけます。あと、いま大阪万博で、2億円のトイレが問題になっていますよね。これもデザイナーに設計させることで予算が膨れ上がっているということです。

「トイレ清掃」をめぐっては、「素手でトイレ掃除」というヤバい話があります。

こちらのサイトが詳しいですが、「京都市では、10年ほど前に市民ら有志が「京都掃除に学ぶ会」を結成、さらに2005年2月には、同会の活動に賛同する教育関係者が「便きょう会」を立ち上げました。」(...)「京都掃除に学ぶ会の初期からの会員、門川大作教育長が、『便きょう会』を立ち上げた」(2006.8.8「地域教育フォーラム・イン京都」資料集 P58といわれており、今も会長は、門川大作教育長です。」とあります。

素手でトイレ掃除をすることで、「心がきれいになる」というカルト宗教まがいのキモい信条のもと集まった教育関係者が、京都の小学校でこれを子供に強要しているのです。で、この門川大作というのは、現京都市長に他なりません。

これでは終わりません。京都市長選が先月行われましたが、そこで当選した松井孝治という人は、素手でトイレ掃除する写真をTwitterにアップしています。なーんか、こういう薄気味悪い大人たちの勢力が学校現場でじわじわ浸透する感じ、嫌ですよね。なので、東京トイレプロジェクトなる団体が企画した、トイレ清掃員の日常を描いた映画と聞くと、どうしたってキモいわけです。

だいたい、東京トイレプロジェクトというのは、ホームページをチラ見する限り、公共のトイレをスタイリッシュにして新しい公共空間をつくろうとかいうモットーを掲げているようなのですが、宮下公園などでショッピングモールの建築の建前でホームレスを追い出したりとやりたい放題のデベロッパーとの関係はどうなのかとか、日本でクリエイティヴな公共空間とかいって出てくるものは排除アート(柵をつくって寝れないようにするやつ)とか、本当にグロテスクで反公共的なものばかりじゃないかとか、もうそういうコンテクストを踏まえると超絶キモいわけですよ。なので、いくらあのヴィム・ヴェンダースとはいえ、みたいな感じはわからなくはないです。

 

4. ところで、この映画の役所さん演じる主人公は、トイレ清掃の仕事で生計を立てていて、6畳一間みたいなボロアパートに暮らしてるおじさんで、無口で特に親しい友人もいないような人です。ただ、行きつけの古本屋さん、居酒屋などがあり、また70,80年代の音楽をカセットテープで楽しみ、夜はパトリシア・ハイスミスウィリアム・フォークナーの小説を読むような趣味人でもあります。ただちょっと仄めかされるように、家族とは長い間疎遠になっているようで、身寄りのない孤独な初老という側面もあります。健康なうちは良いですが、ちょっと体壊したら、誰も面倒見れない、孤独死待った無しのリスクもあるような人です。日本はどんどん独身率が上がっています。また、いわゆるロスジェネ世代の人たちが金も身寄りもないまま、だんだんと中年、初老というフェーズに入っています。経済の低迷とともに、年功序列・終身雇用に支えられた「会社共同体」は崩壊し、地域のつながりも希薄になり、居場所を失った個人はますます孤立を深め、社会で一緒に生きているという感覚が失われていき、公共意識が薄れ、一部は極端な排外主義に染まり、民主主義にとっても大きなダメージとなります。これは多かれ少なかれどこの先進国でも起きていることで、最近教え子とのただならぬ関係をスクープされて戒告された宮台真司などが以前から言っていたことではありますが、今や一部の識者の分析という範疇を超えて、かなり多くの人が実感していることなんじゃないかと思います(定年退職後の孤独になるサラリーマンの記事とかめちゃめちゃよく見かけます)。

まぁぶっちゃけて言いますと、私の仙台での暮らしとか、この役所さんのトイレ清掃が病院勤めになっただけで、勤務後は家か映画館で古い洋画を見て、コインランドリーに行って、読書して、銭湯は行かないけどたまに秋保温泉でゆっくりして、寝て、という毎日でしたからね!(なんなら街路樹鑑賞にはまって写真撮ってるとこまで被ってて、恥ずかしい限りです!笑)
映画の最後に「Komorebi」という日本語が紹介されるのですが、いやぁ夏の定禅寺通りの木漏れ日が懐かしい。

いや何が言いたいかって、こういう、「孤独な老後」みたいなものを不安を以て見据えている人っていまやめちゃめちゃ多いんだと思いますね。なので、トイレのコンテクストとは別にして、日本社会の集合的無意識を刺激する映画なのかもしれないですね。とはいえ、「社会問題を考える側」からすれば、やっぱりそういう状況をそのまま肯定するわけにはいかないわけですよね。自分の世界に閉じこもって孤立化するのではなく、連帯して団結して社会正義を実現したいわけです。そういう意味でも、なんか孤独な毎日で充実しちゃってる役所さんというのは、「問題の隠蔽」に見えなくもないということになります。

ちなみにですが、本作の役所さんは、扶養者もなく、狭いアパートで暮らしているだけなので、実はけっこう余裕のある生活をしています。毎日銭湯に行ってますし、基本外食です。でも実際のトイレ清掃員は、子供がいたり、持病があって病院に通っていたりしている人もいます。ヴェンダース個人の企画であれば素通りできても、やはり東京トイレプロジェクト企画で、こういう設定だと、めちゃめちゃ欺瞞的に見えるというのも宜なるかなと思います。

で、ちょっとヴェンダースの話に戻りますが、ヴェンダースの映画って別に本作に限らず、無口で、社会との関わり方がわからなくなっているような人の映画です。『Perfect Days』はけっこう『パリ、テキサス』に似ていると思います。ヴィム・ヴェンダースが初期に一緒に活動していた小説家に、ペーター・ハントケという人がいます。この人は2018年にノーベル文学賞をとっていますが、この人の小説はマジで暗いというか、本当、本作の役所さんみたいな孤独を極めた人たちの孤独っぷりが延々と綴られています。(ちなみにハントケボスニア紛争のときに、セルビアの側に立ち、NATO空爆を批判したこともあり、ノーベル賞の受賞は多くの批判を巻き起こしました。)いや、何って、実はロチェスターに来て1ヶ月ぐらい、ずっとハントケの小説を読んでいたんですよね(笑) なんと言うか、この孤独、孤立化が深まる現代において、ヴェンダースの映画やハントケの小説って需要がなくもないのかなと思わなくはないです。ちなみにヴェンダースでいうと、『まわり道』という延々と歩いているだけの根暗映画があって、個人的なお気に入りです(笑)

 

Posters

昨日は、久々にEastman Museumに行きました。2月から、60年代の映画ポスターの展示をやっており、これを見に来ました。ひたすら写真を貼ります。

真ん中と右端はポーランドのポスター。もはや抽象絵画

ゴダールの『カラビニエ』

有名なソール・バスの作品群。この人のデザインはワクワクします。

 

60年代は映画のみならず様々なアート/エンタメの世界で題材や形式の幅が広がった時期と言われています。アメリカでは黒人の問題を扱った作品や黒人の俳優が主役をはる娯楽作品が作られるようになり、また同性愛を題材にした映画も増えていきましたが、それと連動するように独創的なポスターデザインがつくられるようになりました。また旧共産圏では、53年にスターリンが死んでから雪解けを迎え、チェコ・ヌーヴェルバーグのような波も起きました。旧共産圏では映画産業は国家が運営するものであり、市場で競争する必要がないため、アメリカのように、スターの迫力あるイラストではなく、抽象画のようなそれ自体アーティスティックなポスターが多くつくられたということです。上にあるソール・バスは、ドイツのバウハウスソ連構成主義をうまく西欧のマーケットに持ち込んだ人、というふうに整理できるようです。

面白いのが、めっちゃ凝ったデザインのポスターの作者を見てみると、結構多くが「不明」となっていたことで、ここらへんも商業性と芸術性のちょうど中間に位置するポスターデザインというものの面白さですね。ところでポスター芸術の先駆者といえばミュシャですね!ミュシャが映画のポスターを描いたらどんな感じだろう、と想像するとワクワクしますね。

昨年の日本リウマチ学会(福岡)で、ほとんど会場に行かずミュシャ展を見に行っていたのは秘密です。

 

 

 

 

細胞の培養

今週はマウスを解剖して細胞を抽出して培養に持っていく練習をしていました。一度別のラボで見学したあと、そこで培養開始した細胞をこちらのラボに持ち帰ったのですが、そこで処理を間違えて死んでしまったという話をどこかで書きましたが、その後、自分でマウスを解剖しようと試みるも、一度見ただけでは到底できないことに気づき(いや知ってた)、「あの、一回見ただけじゃ無理なんすけど」とメールを送って、もう一度見せてもらいました。今回はビデオも撮らせてもらい、前回よりは手取り足取り細かく教えてもらいました。その過程で細胞の培養に失敗したことがバレましたw 撮ったビデオをもとに、木曜と金曜に立て続けに練習して、多少は形になったかなという感じです。「まだまだ不十分ですが、だいぶ形にはなってきました」って英語でどういうんでしょうかね。
I still have a hard time going through it, but I think I got much better now.(なんか違う)

と、色々ラボでやることが増えると、夕方にダウンタウンに出かけるとかいう気力がなくなっていくため、基本家で生活して週末に映画を見に行く、というワンパターン生活になり、なかなか新規開拓ができていません。。明日は初めてGeva Theaterという劇場に行くことにしています。そのうちニューヨークに週末旅行もしようかしら。

 

この前、Wegmansで芽キャベツを大量に買ったので、芽キャベツとベーコンでパスタをつくりました。個人的に、芽キャベツとか、マッシュルームとか、あとタコ焼きとか、子供の拳ぐらいの大きさの丸い食べ物が好きなんですよね。フォルムがかわいいから。

 

白ワインに合いました。真ん中のゴキブリみたいなのはスモークオイスターです。

 

 

 

 

Postal

なんと、前の仙台のアパートに郵便物が来まくってて入居者がお困りとの連絡が・・・。

中央郵便局に行って、海外に転居するから停止してくださいと頼んで、その場で「じゃあ止めることにします」と言われたので安心していたんですが・・・。

安楽死合法化 / 細胞の培養

先日書いたカナダのCBCポッドキャストで、安楽死の話が取り上げられていました。
2016年に安楽死が合法化されて以降、急速に安楽死先進国となっているカナダですが、これまで身体における不治の疾患を条件としつつ、これがどうにもできない場合に適応が考慮されるものだったようなのですが、現在は精神疾患を単一の条件としても安楽死の申請ができるようにする方向で話が動いているということです。去年、話が先送りになって、今年いよいよということだったみたいなのですが、今回も先送りになったという話をポッドキャストで扱っています。

www.cbc.ca

なんだか、安楽死といえばスイス、オランダみたいなイメージですが、カナダ、ベルギー、オーストラリアなどがそれぞれの条件下で安楽死を合法化しています。「安楽死/euthanasia」という言葉もどうなのかとは思いますが、カナダの場合はmedical assistance in dyingという用語が使われているようです。

基本的には、リベラリズムの観点に基づき、自分の生についての自己決定権があるように、自分の死についても自己決定権があるという発想があるわけですが、なかなか難しいですね。2022年にジャン=リュック・ゴダール監督が安楽死で亡くなったというニュースが衝撃的だったわけですが(自身の映画と同じように、人生を唐突に「カット」してみせたなんて言われていました)、それ以降、たまに安楽死については考えるところがあります。

 

こちらの記事はカナダで実際に死亡幇助を提供している医師のインタビューで、非常に示唆に富みます。

globe.asahi.com

特に、「私は、死の選択肢を示すことができるだけで、治癒的効果があると信じています。この段階で私の仕事は8割終わっています。患者は自分に決定権があり、力を与えられたと感じ、そのことだけで苦しみが和らぎます。」というような発言は、確かに批判するのが憚られるような、リベラリズムの王道を行く清々しさがあります。

一方で、最近読んだこちらの記事では、影の側面が触れられています。

president.jp

「カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。」というのは考えものですし、そもそも医師の側も結構安楽死の承認に「前向き」になっている部分があるようで、こうした事例を読んでしまうと、どうなのかなと思ってしまいます。

今回は先送りになった精神疾患による安楽死が合法化された場合、たとえば「死にたい」などの「症状」は果たして「症状」としての位置を維持できるのでしょうか。症状というのは、基本的にそれによって自身の健康や生活が制約されてしまうという意味合いがあります。しかしながら、「死にたい」→「安楽死」という「合理的な」道筋があるのだとすれば、それはもはや「症状」ではなくなってしまうように思います。(このように、医学における症状や疾患は純粋に生物学的な定義ではありえず、社会ー心理ー生物モデルで定義されています。)

 

Guardian誌のこちらのコラムでは、結局、誰かが安楽死を望んだとき、その「選択」が許容できるぐらい、その人の状態が悲惨であるかどうかがポイントになるのだから、実は個人の自己決定を促進しているようで、「その人の人生がどう見えるか」が問題になっているのだ、とちょっと鋭い指摘がなされています。

For many, the case for assisted dying is clear. But life – and death – is often not so simple | Martha Gill | The Guardian

また、同じコラムでは、ロビン・ウィリアムスの自殺が、かなり自殺者数を増やしたというような疫学調査をもとに、一度死の選択肢というものが与えられた場合の波及効果についても憂慮しています。

70年代に『ソイレント・グリーン』というSF映画がありましたが、格差が恐ろしく進行したディストピア的な世界で、死にたくなったらいつでも安楽死させてもらえるという設定でした。自然の映像とヒーリング音楽に囲まれながら穏やかに、ほとんど感動しながら「幸せな」最期を迎えるシーンが印象的でしたね。カナダでは医療へのアクセスが芳しくなく、待機時間が年々増えているなか、安楽死はほんの数週間でできてしまうという事態となっています。
このような「福祉の顔をした自殺幇助」というものが一般化してしまう世界は、AIに支配される世界以上に現実に迫っているのかもしれません。

 

より現実の話として安楽死を取り上げた作品では、昨年日本でも公開されたフランソワ・オゾンの『すべてうまくいきますように』という傑作がありました。ソフィ・マルソー演じる女性の父親が脳梗塞で倒れて、復調するのですが、不自由になった自分を受け入れられず、頑なにに安楽死を希望し、それを渋々受け入れた姉妹が父親をスイスに連れて行こうとする話で、これは大変素晴らしい映画でした。 

 

https://www.amazon.co.jp/ソイレント・グリーン-字幕版-チャールトン・ヘストン/dp/B00FIWD6ZQ

 

www.amazon.co.jp

 

ちなみに日本でもし安楽死を考えるとすれば、まずは死刑廃止が先だと思います。

 

***************************************:

最近、マウスの骨皮質由来の細胞を培養する術を教えてもらって、細胞を継代していたのですが、途中でミスって全部死んでしまいましたw  教えてくれた先生には内緒にしてまたマウスを入手することにします。。

あとは、別の研究のことで、ボスから別の研究室のポスドクを紹介してもらい、本日ラボに直接伺って、色々とディスカッションさせてもらいました。前にも書いたように、日本にいる時とは比べ物にならない早さで、いろんな人を紹介してもらえるのですが、やはりうまく英語でコミュニケーションとれるかな、ここらへんは何て聞いたらいいのかな、といったことを前日から考え続けることになるので、なかなか疲れます。ただ、今日は結構和やかに実りあるディスカッションができたのでスッキリしました。

明日はミーティングで、別の人が進捗を報告する予定ですが、私もスライド一枚でトピックを紹介するように言われているので、本日はその原稿を書いていました。これは日本語でもそうなのですが、ちょっとさくっとプレゼンをするときでも(というかそういうときこそ)、可能であれば原稿を先に書いておくようにしています。その方が絶対うまく喋れるからです。これは研究だけでなく、むしろ臨床の現場ですごく感じることが多くて、若手の医師は救急外来などで専門科にコンサルテーションを行うことが頻繁にあるのですが、私は(ST上昇してます、みたいなとは異なる)少し入り組んだ症例については、電子カルテにコンサル内容を打ち込んだうえで、電話口でそれを棒読みするようにコンサルトしていました。研修医は夜の救急外来で(めっちゃ眠くて機嫌が悪い)上司にコンサルトするのがストレスになるわけですが、この原稿棒読みコンサルトをするようになってから、かなりスムーズにできるようになりました。

研修医にも、一度騙されたと思って原稿書いてからコンサルトしてみな、というのですが、誰もしてくれません(泣)