Smoky life in Rochester

Rochester大学にポスドク留学中の日記。膠原病専門。

長くなってしまった

今週は、わりと大きめのプロジェクトの一部として、自分が担当する細胞培養の本番1回目を行いました。マウスから細胞をとって、それを選り分けたあと、目的の細胞を試薬と一緒に培養して、3日後に培養上清や細胞を取って保存、というものです。日本ではマウスに触ったことがなかったので、そこが一つ課題でしたが、手技自体はそれほど難しくなく(別のマウス実験は手こずっておりますが)、もともと細胞の分離と培養は慣れているので、全体として大した難易度ではないのですが、やはり環境が違うとあれこれ大変で、日本でのラボ環境とは備品の配置や仕様がいろいろ異なっており、ちょっとした作業に手こずったり、クリーンベンチと試薬庫の間を何度も往復するはめになったりと、なんだか余計に疲れた気がしました。このあとは保存した培養上清を使って、また異なる細胞を培養する予定なのですが、その培養は完全に初めてで、教えてくれるドクターも離れたラボの人で、基本「プロコトル見てくれ」なスタンスなので、自信をもってできるところまで行っておらず、本番でうまく行くか不安です。しかも、うちのボスも、この培養実験を出して早めに論文にしておきたいと思っているらしく、そのプレッシャーも少々あります(優しい人なので、そんなプレッシャーかけてくるとかではありませんが)。ということもあって、肉体的にも疲れたし、このあとの事もあって、手技が終わってもあまりスッキリしない一週間でした。

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(以下は気づいたらすげぇ長くなってしまったのですが、せっかく書いたのでそのまま残しておきます。)

で、今日は培養細胞を保存し終わったあと、ダウンタウンに行って、役所広司さんの『Perfect Days』を見に行きました。映画の内容とは別に、この映画をめぐっては、色んなイシューがあって、すげぇややこしいことになっていて、面白いので書いてみます。1.監督の話、2.企画そのものが叩かれている話、3. 日本におけるトイレの話、4. 日本社会の話、と順番にいきましょう。(ちなみに内容についてはこちらで書きました。)

 

1. まずこの映画は、ドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダースが日本人キャストで撮った映画で、カンヌ映画祭では役所さんが主演男優賞を受賞して、作品も大いに評価されています。このヴェンダースという人は、映画界では超有名な人です。70年代ぐらいから、西ドイツの何人かの映画監督の作品が世界的に評判を呼び、ニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれました。その中心的存在がこのヴェンダースです。特にヴェンダースは日本で人気なのですが、82年の『パリ、テキサス』や90年の『ベルリン、天使の詩』などは世界で大絶賛され、特に前者は戦後映画の金字塔的な存在だと思います。

で、このヴェンダースという人は、元々日本映画をこよなく愛していて、なかでも小津安二郎監督を崇拝しています。80年代に日本の風景をドキュメンタリー映画として収めた『東京画』という映画を撮っています。また、今回、役所さんが演じる男は「平山」という苗字ですが、これは小津監督の『東京物語』の一家の苗字と同じです。縦長のスタンダードサイズで撮られていることも何かしら意味合いがあるでしょう。それと劇中で「今度は今度、今は今」というセリフを二人でオウム返しのように連呼する場面がありますが、これは小津監督の作品で「そう、そうなのねぇ。。」「そう、そうなのよ、、、」というオウム返しが頻発することへのオマージュでしょう。と、そんな具合で日本の映画ファンとしては、テンション上がりまくりの企画なわけです。

 

2. ところがです。じゃあこの企画はいったいどこから湧いてきたのかというと、「東京トイレプロジェクト」という団体が企画したらしいのです。これがインテリ勢から猛批判にあっているポイントです。というのも、この映画は、実際の内容はともかくとして、予告編やメディア広告のパッケージだけを見ると、「トイレ清掃員の慎ましい日常を通して何気ない幸せをすくい取る」というような感じの映画に見えます(その印象は半分当たっています)。格差が拡大し、低賃金で長時間労働を強いられているたくさんの労働者がいるなか、資本家側である「東京トイレプロジェクト」の企画によって「日常の何気ない幸せ」を提示されても、それは社会問題を隠蔽している欺瞞ではないか、というわけです。すっげぇわかります。例えばイギリスのケン・ローチ監督などは、そうした低賃金労働者の過酷な生活を切実に描くことで有名ですし(『わたしは、ダニエル・ブレイク』とか『家族を想うとき』とか)、2,3年前にアカデミー賞を受賞した『ノマドランド』という映画も、Amazonのパートタイムで食いつなぐ労働者を通して資本主義を批判するタイプの作品でした。そういうものと比べると、なんとなくトイレ清掃という「過酷な賃金労働」に過ぎないものを美化して実態を隠蔽しているように見えなくはないのも正直なところです。

さらにですね、この映画の脚本がヴェンダースと高崎卓馬という人の共同脚本になっているんですね。で、この高崎卓馬という人をwikipediaで調べてみると、なんと東京オリンピックのクリエイティブ・ディレクターとかやっている人で、資本と癒着してそうな感じがヤバいわけです。

 

3. あとですね、やっぱり日本における「トイレ」ってもはや冗談抜きで政治マターなんですよね。笑っちゃいますが。

まず、羽田空港のメインゲートの大きな広告はTOTOですよね。日本のトイレって確かに謎に高性能で海外の観光客が驚くみたいな小ネタもたまに見かけます。あと、いま大阪万博で、2億円のトイレが問題になっていますよね。これもデザイナーに設計させることで予算が膨れ上がっているということです。

「トイレ清掃」をめぐっては、「素手でトイレ掃除」というヤバい話があります。

こちらのサイトが詳しいですが、「京都市では、10年ほど前に市民ら有志が「京都掃除に学ぶ会」を結成、さらに2005年2月には、同会の活動に賛同する教育関係者が「便きょう会」を立ち上げました。」(...)「京都掃除に学ぶ会の初期からの会員、門川大作教育長が、『便きょう会』を立ち上げた」(2006.8.8「地域教育フォーラム・イン京都」資料集 P58といわれており、今も会長は、門川大作教育長です。」とあります。

素手でトイレ掃除をすることで、「心がきれいになる」というカルト宗教まがいのキモい信条のもと集まった教育関係者が、京都の小学校でこれを子供に強要しているのです。で、この門川大作というのは、現京都市長に他なりません。

これでは終わりません。京都市長選が先月行われましたが、そこで当選した松井孝治という人は、素手でトイレ掃除する写真をTwitterにアップしています。なーんか、こういう薄気味悪い大人たちの勢力が学校現場でじわじわ浸透する感じ、嫌ですよね。なので、東京トイレプロジェクトなる団体が企画した、トイレ清掃員の日常を描いた映画と聞くと、どうしたってキモいわけです。

だいたい、東京トイレプロジェクトというのは、ホームページをチラ見する限り、公共のトイレをスタイリッシュにして新しい公共空間をつくろうとかいうモットーを掲げているようなのですが、宮下公園などでショッピングモールの建築の建前でホームレスを追い出したりとやりたい放題のデベロッパーとの関係はどうなのかとか、日本でクリエイティヴな公共空間とかいって出てくるものは排除アート(柵をつくって寝れないようにするやつ)とか、本当にグロテスクで反公共的なものばかりじゃないかとか、もうそういうコンテクストを踏まえると超絶キモいわけですよ。なので、いくらあのヴィム・ヴェンダースとはいえ、みたいな感じはわからなくはないです。

 

4. ところで、この映画の役所さん演じる主人公は、トイレ清掃の仕事で生計を立てていて、6畳一間みたいなボロアパートに暮らしてるおじさんで、無口で特に親しい友人もいないような人です。ただ、行きつけの古本屋さん、居酒屋などがあり、また70,80年代の音楽をカセットテープで楽しみ、夜はパトリシア・ハイスミスウィリアム・フォークナーの小説を読むような趣味人でもあります。ただちょっと仄めかされるように、家族とは長い間疎遠になっているようで、身寄りのない孤独な初老という側面もあります。健康なうちは良いですが、ちょっと体壊したら、誰も面倒見れない、孤独死待った無しのリスクもあるような人です。日本はどんどん独身率が上がっています。また、いわゆるロスジェネ世代の人たちが金も身寄りもないまま、だんだんと中年、初老というフェーズに入っています。経済の低迷とともに、年功序列・終身雇用に支えられた「会社共同体」は崩壊し、地域のつながりも希薄になり、居場所を失った個人はますます孤立を深め、社会で一緒に生きているという感覚が失われていき、公共意識が薄れ、一部は極端な排外主義に染まり、民主主義にとっても大きなダメージとなります。これは多かれ少なかれどこの先進国でも起きていることで、最近教え子とのただならぬ関係をスクープされて戒告された宮台真司などが以前から言っていたことではありますが、今や一部の識者の分析という範疇を超えて、かなり多くの人が実感していることなんじゃないかと思います(定年退職後の孤独になるサラリーマンの記事とかめちゃめちゃよく見かけます)。

まぁぶっちゃけて言いますと、私の仙台での暮らしとか、この役所さんのトイレ清掃が病院勤めになっただけで、勤務後は家か映画館で古い洋画を見て、コインランドリーに行って、読書して、銭湯は行かないけどたまに秋保温泉でゆっくりして、寝て、という毎日でしたからね!(なんなら街路樹鑑賞にはまって写真撮ってるとこまで被ってて、恥ずかしい限りです!笑)
映画の最後に「Komorebi」という日本語が紹介されるのですが、いやぁ夏の定禅寺通りの木漏れ日が懐かしい。

いや何が言いたいかって、こういう、「孤独な老後」みたいなものを不安を以て見据えている人っていまやめちゃめちゃ多いんだと思いますね。なので、トイレのコンテクストとは別にして、日本社会の集合的無意識を刺激する映画なのかもしれないですね。とはいえ、「社会問題を考える側」からすれば、やっぱりそういう状況をそのまま肯定するわけにはいかないわけですよね。自分の世界に閉じこもって孤立化するのではなく、連帯して団結して社会正義を実現したいわけです。そういう意味でも、なんか孤独な毎日で充実しちゃってる役所さんというのは、「問題の隠蔽」に見えなくもないということになります。

ちなみにですが、本作の役所さんは、扶養者もなく、狭いアパートで暮らしているだけなので、実はけっこう余裕のある生活をしています。毎日銭湯に行ってますし、基本外食です。でも実際のトイレ清掃員は、子供がいたり、持病があって病院に通っていたりしている人もいます。ヴェンダース個人の企画であれば素通りできても、やはり東京トイレプロジェクト企画で、こういう設定だと、めちゃめちゃ欺瞞的に見えるというのも宜なるかなと思います。

で、ちょっとヴェンダースの話に戻りますが、ヴェンダースの映画って別に本作に限らず、無口で、社会との関わり方がわからなくなっているような人の映画です。『Perfect Days』はけっこう『パリ、テキサス』に似ていると思います。ヴィム・ヴェンダースが初期に一緒に活動していた小説家に、ペーター・ハントケという人がいます。この人は2018年にノーベル文学賞をとっていますが、この人の小説はマジで暗いというか、本当、本作の役所さんみたいな孤独を極めた人たちの孤独っぷりが延々と綴られています。(ちなみにハントケボスニア紛争のときに、セルビアの側に立ち、NATO空爆を批判したこともあり、ノーベル賞の受賞は多くの批判を巻き起こしました。)いや、何って、実はロチェスターに来て1ヶ月ぐらい、ずっとハントケの小説を読んでいたんですよね(笑) なんと言うか、この孤独、孤立化が深まる現代において、ヴェンダースの映画やハントケの小説って需要がなくもないのかなと思わなくはないです。ちなみにヴェンダースでいうと、『まわり道』という延々と歩いているだけの根暗映画があって、個人的なお気に入りです(笑)